期待が恐怖に直結?

先日書いた内容を読み返して、注意書きとの矛盾を突き詰めているうちに、物語要素が苦手というところは「違う」と思えてきた。やはり「楽しんで」読んでいたのである。そうでなければ読み続けるはずがなく、半強制的にとはいえ読むときは読んでいたのだ。
ただ、冊数はこなしていても、読むものは次第に随筆的なものにシフトしつつはあった*1。時間的制約がそうさせたのかもしれない。しかしその随筆も、時間を下る中ですっかり読まなくなってしまったし、新書等の類は引き続き読んでいるので*2、そこは違うということになる。

では何が理由で読まなくなってしまったのか。読書をする上で重要な要素といわれることに

  • 自分の中にその世界を再構築できるか

というものがある。おそらくここに引っ掛かるものがあるのではないだろうかと自分では思う。物語の中の世界観を自分の中に取り込むことで、登場人物と体験を共有して楽しむ、物語の基本の読み方である。私も当然このようにして物語を取り込んできた。
話が反れるが、私は想像・妄想をしていることが多い。その中に様々な要素(既読・未読に関係なく物語の世界観も)を取り込んで、ある程度の物語に仕立てることもあるが、具体化することはなかった。ひたすら掻き乱されていく、それだけのものである。ただ単にこれだけなら、自分が苛まれるということはないし、(自分で言うのも難だが)とりあえず無害。
問題は、情報化社会故に多くの個人的意見が散見されることだ。これ自体は何の問題もなく、当然の存在である。何がいけないかといえば、私が安易に他人の意見に感化されてしまうことである。そこからが厄介なのだ。強烈な意見・批評(現実社会に当てはめて考える意見が多い)が記憶され、物語の世界観に絡み付いて悪方向への妄想が始まる。そして自分の意見と葛藤した挙句に放棄。もはやこれが怖くて遠ざけているという状況で、何の物語であろうがあらすじを読むのが精一杯*3。読みたくなっても、わざわざ自分で壁を高くして読まないということは、もはや当たり前になってしまった。
書いていて思い出してきたのだが、幼い頃のこと、鑑賞した子供向けアニメ映画に恐怖感を抱いてしまったという記憶が蘇ってきた。話の展開もそうだが、今では何がどう怖かったのかさえ思い出せないが、やはり葛藤していた記憶は残っている。条件次第では、本編の中でも悪方向への妄想に陥ることがあるようだ。現在では映像鑑賞でも物語要素が排除されたもの(あっても超短編で、考えずに見られるもの)しか見なくなってしまい、当然物語本編はまず観ないので、付随ネタでしか楽しんでいない状況。いくら話題になろうが、私にとっての敷居は高いままである。
もう例えだろうが設定だろうが、評価も批判も、作品の世界を楽しむことをさえ阻害する要素になり得るという状態なので(自分の評価が確定できないので)、落ち着いて作品に関する他者の意見と対立しようとしないから、中途半端に接点を持たない状態といってもいいかもしれない。

妄想で混乱という状態は、数少ない自信を持っている趣味の鉄道ネタでも、ときに発生する。私が京王関連の掲示板からほぼ撤退したのも、自分が考えていた展開*4と実際のズレが大きかったことによるものである。

ついでに、裏社会ネタ等の場合は、現実世界の話かどうかさえ関係なく妄想して恐怖に陥るということもあり、数ヶ月間も葛藤することさえある。週刊誌の広告さえ恐怖になり得、それだけで丸一日憂鬱な状態になったりするものだから、ときどき本文を読んで恐怖の渦に巻かれてしまう、まさに口車に乗せられてしまうという有様。これが長期間続くのだから、マスコミにしてみれば「してやったり」。

裏社会ネタはともかく、結局きちんと理解しないままの段階で、意義があるかどうかも判断できずに、混乱したまま読まないだけのようである。冷静に判断するようには心掛けているが、判断基準さえ振り回されている節があり、そこでまた混乱に陥るという悪循環から脱出できるようになるには時間が掛かりそうである。

*1:特にテーマを絞って時系列に並べたものは、読んでいて面白かった。

*2:それでもかなり中断がちにはなっているが

*3:最近は、あらすじの段階で既に取り付かれていることさえある。

*4:なぜか大穴を狙ってしまうというのか、一般的な予想の斜め上ばかり見ているというのか、周囲の人間には理解できない予想ばかり立てる悪い癖がある。